アンキーモとトロールを巡る伝説には、異説がたくさんある。以下で紹介する話は、数ある異説の1つにすぎない。
銀河暦の紀元前、森の守り神である母なる狼「ウッヅ・マーサ」に育てられたウッヅ・タイガー、ウッヅ・ドラゴンの双子によって、7つの丘に囲まれた街、ダイシン(点をつけずに、タイシンとする史書もある)が開かれる。
十数世紀の時が流れた後、銀河暦938年ごろのできごとである。当時のダイシン王アントン(Anton)の従兄弟とも伝えられるダイアン郷アンティン(Antin)は、故郷「シラカンバ」から巡礼の旅に出た。最終的に目指すのは、イウォーク族の守る聖地「クマーノ」である。再び戻れないかもしれない「シラカンバ」を目に焼き付けようと、闇の中を行く宇宙船の窓際で目を凝らす。しかし、旅の準備の疲れからぐっすり眠り込んでしまい、それが旅路の中で唯一ともいえる心残りとなる。
その後、「空から見たシラカンバは、どうだった」という行く先々の人々の問いに、うまく答えられず、忸怩たる思いを抱き続けることになる。彼は「シラカンバよ、不佞(ふねい)、この屈辱、いかに晴らさん」*1と自問自答を繰り返していた。
やがてアンティンは、故郷から遠く離れた惑星「ウパルパ」に降り立つ。土地が痩せており、底引き網漁で何とか食料を得るような貧しい星であった。アンティンは、底引き網船に兄とともに乗り込んで手伝う、気立てのいい少年、トロールと出会う。彼は、幼生のまま大きくなるという変わったサンショウウオをペットにしていた。目が澄んでいるが、ふだんは頼りなくも見え、仲間たちからはときどき、パーあるいは阿呆呼ばわりされる少年。しかし、正義感あふれ、いざとなったら恐れず行動するトロールに、アンティンは、信頼を覚えた。
銀河暦10世紀ごろの人々は、実は、相互に安全を保証する証として、RFIDを持ち歩いている。これを持たなければ、星間を旅することができない決まりなのである。トロールがいつか宇宙に雄飛しそうな予感を感じたアンティンは、トロールと、互いのID情報を教えあった。
ある日、アンティンがトロールとウパルパの海の水際を散歩していると、不思議な空飛ぶ大剣(おおつるぎ)に不意に切りつけられた。思わぬ襲撃にトロールは深手を負うが、祈りの力で跳ね返す。大剣は、次に、同じ水際で遊ぶ歌姫とその幼い娘「ビアン」に襲いかかった。大剣は、あわや歌姫を串刺しにするところであった。アンティンは咄嗟の機転の法力で、歌姫が大剣を無事に丸呑みできるようにして歌姫を守る。その間、ビアンをトロールが守ってくれていた。
辺境のウパルパには、医者はいない。アンティンは、大剣に負わされた傷を治し、癒すため、トロールに別れを告げ、病院宇宙船の「マナーゴ(MUNARGO)」に向かった。
養生の床でアンティンは、ウパルパでの経験をもとに、信心の大切さを説く預言書「利物con Trol (Trolとともに歩む悟りへの道)」*2を書き綴る。基本的には、硬い内容の教義の書である。民衆は、このうち、英雄譚として楽しめる個所だけを取り出して、口の端にのせていた。主として、語られたのは、大剣(おおつるぎ)譚の部分である。
やがて、大剣丸呑みの場面で語漏の流浪の古老がトロールにつぶやく言葉「丸のままじゃ、飲めるかのう」を、この物語の表題のように用いるようになる。いつの間にか元の意味は忘れられ、転訛して、アンティン作の「マルシアーノ・メルカーノ(MARCIANO MERCANO)」と呼ばれる物語となる。
さて、マナーゴには、毎朝、聖地クマーノの方向を見ながら拍手(かしわで)を打つような信心深い美少女「キーヨ姫」が看護師として勤務していた。キーヨは、信心深い一方で、青二才ともいえる兄、アロと黄色い声をあげてはしゃぐようなおきゃんな娘でもある。しかし、聖地をめざす落ち着いた峻厳さを備えるアンティンになぜか惹かれる自分を感じた。
病院には、非常にセンシティブな情報があふれているから、看護師といえども、患者のRFIDのID番号を自由に調べることはできないようにしてある。アンティンが眠り込んでいる、ある未明、キーヨ姫は、彼の病床の脇に立った。彼の寝顔を見ながら彼女は、自分の力ではどうにも止められない一方的な恋に落ちたことを知る。キーヨ姫自身は気付かなかったが、彼女の目に、銀色に輝く涙があふれた。涙のしずくは、ようやくふさがりつつあるアンティンの傷跡を濡らす。そして、銀色から彼の肌色に変わって同化し、しみ込んでいった。
しかし、ただ泣くだけの娘でもなかった。キーヨ姫は自分の美貌で迫って落ちない男がいるものか、とばかり、信心の道を忘れ、アンティンを挑発する。身勝手なふるまいに辟易したアンティンは「クマーノに参るまでは精進したい、帰りに会おう」とキーヨ姫に言い置いて、巡礼の旅を続けた。
クマーノの聖なる山は、熊のぬいぐるみのようなイウォーク族の居住地からは遠く、通常、巡礼たちとイウォーク族との間でトラブルが起きることはほとんどない。しかし、アンティンが衛星軌道から着陸軌道に移ろうとするとき、傷跡が金属のような光沢をみせ、猛烈にうずいた。そのあおりで彼は操縦を誤り、イウォーク族の村の近くに不時着する。彼らは、アンティンを捕えるが、そののち、降臨者として称え始め、神殿に迎えた。イウォーク族に慕われ、まとわりつかれたアンティン。彼は、クマーノに参って早くこの星を後にしようと思っていたのだが、その機会がなかなか訪れないのである。
キーヨ姫に頭を冷やす時間を与え、その後、じっくり諭して彼女から円満に去ろうとしていたアンティンは、クマーノを去ることができず、気を揉むばかり。アンティンはキーヨ姫に恋情などまったく抱いていなかったが、約束をたがえることは、信心に反することであった。
キーヨ姫は、首を長くして、アンティンを待っていた。可愛さ余って憎さも憎し。いくら待っても帰ってこないアンティンに恋焦がれる気持ちは、いつか憎悪に変わった。実は、キーヨ姫の祖先の中には、人に化けた液体金属生物と人との間に生まれた異形の民がいる。「アンティンが自分を騙したに違いない、そんなアンティンを追い詰めて殺してやる」と、ふつふつとブドウの房(クラスタ)のように涌いては連なっていくクラスタな陋見(ろうけん)・・・。そんな邪念は、祖先の遺伝子を活性化させ、映画に出るスーパーモデル「クリスタナ・ガホリン」のように優美だったキーヨ姫を本当に首の長い金属製の蛇に変えてしまった。
彼女は、自分が水銀のような涙を流すわけをようやく悟った。滂沱と涙を流して井戸に貯め、その井戸に身を投げる・・・。古来、そんな説話がないわけではなかったが、水銀の井戸(Hg Wells)には、沈むことができないから、それもかなわない。
さて、星間を旅する人々はRFIDを持ち歩いているが、プライバシーを守る必要もあるから、特定のRFIDの存在位置を検知する距離は、通常の条件であれば常識的な範囲におさまるように定められている。
しかし、長い金属の蛇がとぐろを巻くと、はるか遠くのRFIDチップに電波を投げ掛け、励起されて生じた微弱な電波を感知することができる。おまけにアンティンの身体には、キーヨ姫の分身である金属の涙がしみ込んでいた。彼女は、アンティンの位置をつかむことに成功する。
聖地のため、電波源がほぼ皆無なのにもかからず、RFIDチップが何か通常と異なる電波に反応していることにアンティンは気付いた。危険を感じたアンティンは、フリーの航路設定士(按針)「アンジーン・ミューラー」と世捨て人を気取りながら金も名誉もあきらめきれず「よう捨てんやん」とからかわれる操舵士(ステヤラー。steerer)「ヨー・ステンヤン」*3を金貨合計10枚で雇う。
ミューラーの航路設定とステンヤンの操縦の技に導かれて道なりに進む。彼らの世界でいえばダイシンの都「ラーモ」、はるか後の世界でいえば江戸の八重洲や相模の三浦のような交通混雑地帯を縫っていたミューラーやステンヤンにとって、奥州白河や紀伊の奥深い山中にあたる過疎空間の狭い航路をたどるなど、軽いものである。信心の道を目指す者たちが修行し、肉体を鍛錬する銀河辺境の惑星、テラ・オブ・ドージョー(Terra of DOJO)になんなく逃げ込んだ。
キーヨ姫の異常ともいえる検知の力に気付いたアンティンは、修行のための場、コクーンの中でも、アンティモンと鉛の合金の壁が最も厚いコクーンに独り閉じ篭った。他を巻き込まぬようコクーンの番犬「cocoon-hund」(コクンフンド)をも遠ざけ、孤軍奮闘することを決意する。
憎悪に燃えるキーヨ姫は、必死の形相でドージョー(DOJO)にたどり着き、アンティンの閉じ篭るコクーンに、自らの身体をぐるぐると巻きつけ始めた。キーヨ姫の身体に、怒りからくる大電流が流れる。ちょうど金属コイルのようになったキーヨ姫の励起する磁場。コクーンの合金の壁は最初のうち電波を遮断し、アンティンを守っていた。しかし、融点が摂氏二百数十度と低いので、持ちこたえる時間には限度があった。
風前の灯火となったアンティンのコクーンの脇に、高性能ロケット「ソーラー・ビーン」*4に乗ったトロールが降り立った。兄の漁の手伝いをしていたトロールは、網投げの名手である。超伝導金属の針金でできた網を、ソーラー・ビーンから垂らし、底引き網漁の要領で袋に入れるように大蛇を包む。大蛇の身体を流れる電流は、磁場を生じさせ、それが超伝導金属の網に電流を起こす。それが起こす磁場が今度は大蛇を流れる電流を増幅させる。一瞬の爆発的増幅作用は、コクーンの金属の壁が溶ける前に、大蛇を蒸発させてしまった。
コクーンから出てきたアンティンと手を取り合い、再会を喜ぶトロール。互いのRFIDタグ同士を近づけると、IDを保持し合っているから共鳴する。タグマッチと呼ばれる現象である。トロールの目から涙がこぼれた。
トロールの遠い遠い子孫は、数百光年離れた21世紀の地球で、街の安全を守るトロールとなった。「アンティンとキーヨ姫」の悲劇は、肝を冷やしたアンティンを意味する「アンチン肝冷え」にやがて転訛する。さらに「キーヨ」とも再び混合されて「アンキーモ」と略されるようになった。誰も由来を覚えていないが、トロール、すなわち宇宙の安全にゆかりのあることだけがかすかに記憶された不思議な言葉「アンキーモ」。*5
アンティンが別名ダイアン郷と呼ばれていたことも、すでに人々の記憶にはない。しかし、心の底にわずかに残されたその音の響きが、21世紀に存在したある組織の略称を決める際、誰かの声で「ダイアンキョウ」と綴らせたのである。
アンキーモとトロールに関する有力な伝説の1つがこれである。