執筆:98年9月中旬
下記の文章の著作者および著作権者は、中野潔です。中野の署名を入れていただければ、引用、全部の転載自由です。
著作権法の基礎、著作権法とデジタル社会との関係、1998年1月1日の著作権法改正については、拙著「知的財産権ビジネス戦略」(オーム社刊、1997年10月)を御参照ください。
HTMLで組んだ、Webのソースが、プログラムの著作物として認められるかどうかは、微妙だと思います。しかし、微妙だからといって、著作物としての主張をためらう必要は、まったくありません。裁判になってみなければ、あるいは、裁判前の係争になってみなければどうなるかわかりません。どうなるかわからないことを、あれこれ考えてためらう必要はありません。独創性に自信があるなら、著作物だと主張すべきです。
次に、HTMLで組んだ姿の著作物性について。組んだ姿が著作物だと主張するなら、美術の著作物か図面の著作物になります。一連のページをめくり、姿が動くことを中心に考えて、映画の著作物として主張する手もあります。いずれも著作物として認められるかどうかは、微妙だと思います。しかし、微妙だからといって、著作物としての主張をためらう必要は、まったくありません。後は、前述と同じです。
ノウハウやアイデアは、著作権法では、守ってくれません。タグ付けのノウハウのようなものは、難しいと思います。しかし、タグ付けしたものをプログラミングだと解釈し、その表現自体がパクられているか否か、で争うことはできます。
著作権法には、思想の表現という言葉がありますが、これは別に文学や哲学のようなことをさしているのではありません。思考の表現、思いの表現、知的活動の結果といった程度の意味です。子供の絵や作文も著作物になります。プログラムのように、アルゴリズムの実行過程を、一定の規則に従って表現したものも該当します。
ノウハウを特許で守るには、そのノウハウが非常に明確に説明でき、ノウハウに新規性、進歩性、有用性があることが必要です。ソフトウェア特許が認められる方向にありますから、その新規性が技術的に高いものであることが説明できれば、特許が取れます。
プログラムが通常の方法で可視か、ブラックボックスかは、著作権侵害の要件になりません。通常の書籍は、ほとんどの人が特別の装置なしで、読めます。それでも、盗用は盗用です。プログラムが読める状態だったか、特別の解析が必要だったかは無関係です。
現在のところ、リバースエンジニアリングは、違法ではありません。リバースエンジニアリングで解析しないことが、取り引きの契約条件だった場合には、違法適法と無関係に、契約違反となります。
通常、リバースエンジニアリングして得られるのは、インターフェース部分における入力と出力との関係です。これ自体に著作権が認められる可能性は低いのです。入力と出力との関係を成り立たせるように、新たにプログラミングするなら、プログラムの著作権の侵害にはなりません。
バイナリーコードを逆アセンブルしてソースコードに戻した場合は、著作権侵害になる可能性大です。c++のソースコードをpascalのソースコードに変換したような場合、「表現」を守って、アルゴリズムやアイデアは守らないという著作権法の基本からいうと、侵害にならないことになります。しかし、実際の裁判では、侵害に認定される可能性大です。
MS Wordはプログラムですが、そのデータファイルは、MS Wordの出力だからという理由で守られることはありません。データファイルのデータ形式を著作権で守ることも難しいでしょう。
自動作曲ソフト、半自動のCGソフトなどで作られた作品の著作権がどこにあるかですが、それを操作した人にあるというのが定説です。絵筆を作った会社には、絵の著作権は与えられません。
作品の媒体を変えても、かなりの範囲で複製、すなわち著作権者に無断で実行してはいけないことになります。写真や彫刻(彫刻の場合、公の道から見えない場所にあることが条件)を鉛筆で模写しても複製になります。楽譜をMIDIデータに変えるのも複製です。
さて、HTMLタグ付けファイルあるいはタグ付けした結果が作り出した姿、これが著作物か否かを、法律論からあまり論じても意味が薄いと思います。子供の絵にも作文にも著作権が生じます。一方で、写真では、人物のスナップのように創作性の薄いものは著作性が薄いとされます。絵の写真が、写真の著作物になる可能性は非常に少ないです。建築写真や彫刻写真の場合、建築や彫刻の著作性に加えて、写真家の著作性が加わったものになります(公の道から見える建築や彫刻の場合、建築家や彫刻家に無断で撮影でき、その写真を無断で売買できる)。
著作権法には、刑事の側面があります。違法コピーを大量に売り捌いたような場合、刑事事件になります。しかし、一般のデザイナーや作家がそういうことで訴追されることはまれです。そうなると、民事の事件として、侵害された側に利益の逸失があったかどうかが問題になります。その場合、子供の絵や作文が著作物か否かを論じても、利益の逸失がありませんから、不毛の議論になります(侵害された精神的打撃に対する慰謝料の側面は残ります)。
HTMLタグ付けファイルあるいはタグ付けした結果が作り出した姿については、経済活動という側面から見れば、利益の逸失云々につながりえます。ということは、法律面からその著作物性を厳密に議論するより、創作者は、違法コピーが禁じられていることを主張しておけばよいということです。必ずしも著作権法でなくても、不正競争防止法(著作物でなくても、資金を注ぎ込んで得た果実が不当に真似されて利益を逸しているという主張が成り立つ)が適用される可能性があります。
まだ、プログラムの著作権が確立してないときに、ゲームのパクリ事件が起きました。このとき、ゲームを映画の著作物とみなして、パクった側に損害賠償させた判例があります。裁判では、一方で法律を厳密に適用することもありますが、法律の心に戻って柔軟に解釈することもあります。裁判官の心証で、動く可能性のあることをあまり先読みしても仕方がないのです。
日本人の感性からすれば、裁判官の恣意で左右されるのは納得がいかないと思います。法律解釈の安定性という言葉があります。自分のしていることが違法か適法かの判断が一般人に簡単につかないような、法律解釈の揺れは望ましくないというものです。しかし、次々と新しい技術が生まれ、新しい紛争が起きる中で、すべてを合理的に予測できる法律を作ることもできないし、作っても陳腐化するし、解釈の合意を作っても陳腐化してしまいます。
これを避けるために、契約があります。作品やソフトに添え書きする「注意書き」や「宣言」があります。「注意書き」や「宣言」の有効性(注意書きや宣言を必ず読むのか、読んだからといって拘束できるのか)という問題はまた生じますが、これを先読みしてもまた仕方がないのです。
読んだからといって拘束できるのかというのは、たとえば、一般の人が読んだら誰でも理不尽だと思う就業規則があり、それを入社前に読まされ、雇用契約を結んだからといって、その就業規則に絶対に従わなければならないか、といった話です。
著作権法の基礎、著作権法とデジタル社会との関係、1998年1月1日の著作権法改正については、拙著「知的財産権ビジネス戦略」(オーム社刊、1997年10月)を御参照ください。 (アスキー未来研究所 主幹研究員 兼 立教大学社会学部 非常勤講師 中野潔) 以上
上記の文章の著作者および著作権者は、中野潔です。中野の署名を入れていただければ、引用、全部の転載自由です。