cinematographとtelegraphの世紀からAIBOとbioの世紀へ
本記事は、1999年12月28日にウェブニュースサイト『ascii24』のコラム『deja vu』(現在、そのコラムは廃止)に掲載したものに加筆し、2000年3月の『出版レポート』(出版労連発行)に掲載したものである。
'99年10月20日、英国のブリタニカは、ブリタニカ百科事典に載せている項目をすべて、インターネットのウェブページ上で無料公開した。費用は、広告と物販などでまかなう。公開してすぐ、サーバーにアクセスが集中しすぎて、ダウンしてしまった。それほど人気があるなら、無料で公開するような大博打に出なくても−−と思いたくなるが、それは、後知恵にすぎない。閉店セールで、店の史上まれにみる売り上げを達成した老舗の大デパートがあったが、やはり閉店セールだからこそ客が来たのである。
ブリタニカの初版が出たのは、1768年。明治維新の100年前。英国スコットランドのエジンバラでのできごとである。1450年にグーテンベルクが活版印刷術を発明してから、現在まで550年。その4割以上の寿命を誇っているのだから、大したものである。
その200年以上の歴史を誇るブリタニカが、ビジネスモデルをまったく切り替えるほどなのだから、もっと歴史の短いメディアには、さらなる激変が襲ってもおかしくはない。
電子通信と映像の世紀
フランスのリュミエール兄弟が、パリで映画の有料試写会を世界ではじめて挙行したのは、100年以上前、1895年12月28日のことである。平凡社の『コミュニケーション事典』(鶴見俊輔・粉川哲夫編'88年)から引用してみよう。
〔…(前略)のぞき眼鏡ではない本格的なスクリーン映写装置の開発と実用化に成功したのは、フランスのリュミエール兄弟(兄オーギュスト=1862-1954、弟ルイ=1864-1948)である。1895年12月28日、彼らは自ら発明した映写装置(のちにシネマトグラフと呼ばれるようになる)を用い、パリのグラン・カフェで世界初の有料試写会を行った。一人一人が別々に動く写真をのぞくのではなく、多数の観客が同時に映像を共有するという映画館の歴史は、ここに始まることになる。(後略)…〕
(『コミュニケーション事典』[鶴見俊輔・粉川哲夫編、平凡社刊、'88年]、92ページ、“映画館”の項から。この項の執筆者は川添裕)
蛇足だが、この川添裕は、筆者の知人のペンネームである。『人文学と情報処理 別冊1 電子図書館はどうなる』(石川徹也編、勉誠出版、1999年)を一緒に執筆した仲間でもある。
さて、20世紀は、確かに、電子通信と映像の世紀だった。もちろん、フォーディズムに代表される大量生産と大量消費の世紀という側面もある。1903年に、フォードがA型フォードの生産を開始してから、製造業のあり方は一変し、それが20世紀を通じて、産業の中心であり続けた。しかし、耐久消費財の広告を広範に露出し、大量に作って売りまくるという仕組みそのものが、新聞、雑誌、テレビといったメディアの発達と切り離して存在しえない。
そして、最後の3分の1世紀は、テレビ、VTR、パソコンなど、まさしく電子通信と映像のための機器を、テレビやWWWで宣伝して販売するという、自己増殖ともいえるフェーズに入った。
1895年に映画と無線通信が歩き始めた
また、1895年は、電子通信と映像の世紀を予言するいくつかの出来事が重なった年である。ロシアのポポフが、5月にペテルスブルク大学で、世界初の無線電信の公開実験を挙行した
(『科学技術史 電気・電子技術の発明』、直川一也著、'98年、東京電機大学出版局刊)
。また、イタリアのマルコーニが、35kmにわたる無線電信実験に成功した。
寄り道をして、その後のマルコーニについてちょっと見てみよう。マルコーニは、1897年、マルコーニ無線電信社の前身を設立した。英海軍およびロイズ海上保険会社と契約して、各国の無線電信の業務をほぼ独占。おそれを抱いた米国は、第一次大戦中、米海軍と米GE(ゼネラル・エレクトリック)とでRCAを設立し、米マルコーニ社の資産を取得した。ちなみに、米GEはエジソンが1887年10月に設立したエジソン・エレクトリック・ライトを前身としている。
英国のGEC(ゼネラル・エレクトリック・カンパニー)と米GEの綴りは似ているが、特段の関係はない。
このマルコーニ社は、英国の防衛、電子の大手、GECの防衛部門であるマルコーニ・エレクトロニック・システムズとして、その名を残していた。しかし'99年1月、GECは、英国の航空、防衛の大手、ブリティッシュ・エアロスペース(BAe)に、このマルコーニを約1兆5000億円で売却。そして、英GECが、電機、重電、防衛を柱とした巨大コングロマリットから、欧州最大級の通信会社へと、自分自身を再編し、'99年11月30日に、社名をマルコーニに変更した。
冒頭のブリタニカもそうだが、英国老舗企業の思い切りのよさは、同じ島国ながら、日本と大きく違う。日本サンマイクロシステムズの元専務で、現在、アステックというソフトハウスの取締役である山田博英氏が、「日産自動車や金融業界で怒っていることは変化であって変革ではないと思う。変化のエネルギーは外からくる、変革のエネルギーは内からくる」という名言を吐いている。確かに、生き残るのに必要なのは、変革であって、変化ではない。
家庭におけるビデオ再生のような形を狙っていたエジソン
メディア技術は、しばしば、その発明者の意図とは違う形で、世に広まる。映画といえば名前の出てくるエジソンも、その例外ではなかった。冒頭の『コミュニケーション事典』の“映画館”の項からの引用を続けよう。
〔映画の歴史を語る際、常にその初めに置かれる名前はエジソン(1847-1931)である。彼は1894年、キネトスコープと呼ばれる小さな器械を考案する。この装置は、小さなのぞき穴から一人ずつが動く写真をながめるという、いわば一種ののぞき眼鏡、のぞきからくりで、映像を大きなスクリーンに投射して多くの人びとが同時に楽しむというものではなかった。その意味では、このキネトスコープは映画館とはあまり縁のない存在であり、コミュニケーションの形態としては、むしろ個々人が家庭で楽しむ今日のビデオに近いといってもいいだろう。エジソンはすでにこれ以前に、スクリーン投射方式の装置の実験も行っていたが、彼の関心はあくまでもキネトスコープの大量販売にあり、スクリーンに写して大勢に見られると器械が売れなくなると考えて、当初は映写装置の実用化には消極的であったといわれている。〕
(このあとに、冒頭の「のぞき眼鏡ではない本格的な…」という記述が続く)
今世紀の最後の3分の1世紀になって、メディア技術と電子通信技術が発達するまで、視覚を重視した情報量豊かなコミュニケーションは一斉同報型で、という図式に世の中が従うのは、やむをえなかった。学校、博覧会、遊園地、演説会、劇場、映画館というライブ型メディアが、まず発達する。今世紀後半、テレビ放送の発達で、これらの一部は、ライブ型からリアルタイムの放送型にも、その搭乗(?)媒体を広げていった。それでも、テレビ自身、一斉同報型という制約から逃れてはいない。
クリスマスに数人だけが聞いた最初のラジオ放送
19世紀末、電信、電話、ラジオの分野でも、発明者の思惑を超えた、あるいは、現代の常識からすると意外な、いくつかの試みが輩出する。具体的には、電話を1対多の放送に、ラジオを1対1の通信に用いる動きである。これについては、東京大学社会情報研究所の水越伸・助教授らの研究が高く評価されている。
ハンガリーのエンジニア、チバダール・プスカスは、1893年からブダペストで、通常の電話交換サービスのほかに、電話による音声番組を有料提供するテレフォン・ヒルモンド社を設立した
(『初期の電話利用』、キャロライン・マービン著、『歴史の中のコミュニケーション』の論文の1つ、邦訳の'94年、新曜社刊では同論文は190ページに掲載)
。ヒルモンド社の番組提供サービスは、約30年続いた。1911年に短い期間ではあったが、米ニュージャージー州のテレフォン・ヘラルド社が、ヒルモンドに追随した。
なおプスカスは、ニュージャージー州メンロ・パークにあるエジソンの研究所で働いていた人物である。電話交換機の概念を考えついた本当の功績は、プスカスにあると、エジソン自身が語っていたという。
一方、ラジオの利用形態が、現在の姿である放送メディアに落ち着くまでにも、かなりの時間を要した。その間は、現在のアマチュア無線と同様の、1対1、あるいは1対少数の通信手段として、ごく一部の人々が利用していた。前出の『科学技術史』、157ページの年表には、
〔1906年 フェッセンデンとアレクサンダーソン(米)がニューヨーク近郊で高周波発電機(80kHz)を使って無線電話(ラジオ放送)の実験に成功。〕
とある。同じく前出の『歴史の中のコミュニケーション』、242ページの年表には、
〔1900年 フェセンデンが音楽と声を放送/1906年 フェセンデンが初めてアメリカでラジオ放送。これを聞いておどろいたのはクリスマス・イヴに勤務していた数名のマルコーニ社社員だけ〕
とある。
『歴史の中のコミュニケーション』に掲載された『無線電信の世界』
(スティーブン・カーン著。同書248ページ)
と同じく『放送のはじまり』
(スーザン・J・ダグラス著。同書256ページ)
とによれば、1912年、タイタニック号の沈没を契機に、伝達手段としての無線の価値が確認され、1922年に雑誌や新聞がラジオ放送の意義を強調するようになったという。
〔世界最初の正式放送は1920年11月2日、アメリカ、ペンシルバニア州ピッツバーグのKDKA局が行ったハーディング大統領の選挙報告だとされている〕
(『コミュニケーション事典』、568ページ、『ラジオ』の項、執筆者は後藤和彦、稲葉三千男)
。そして、
〔1922年 米国ウェスティングハウス社のKDKA局がピッツバーグからラジオ本放送を開始。〕
(『科学技術史』、158ページの年表)
と歴史の歯車が回り始める。
社会は予期せぬ形でメディアを活用する
最近でも、メディアが、事業者の意図を超えて使われる、あるいは、事業者の一部は期待していたに違いないが、世間の識者の多くが予想もしなかった勢いで普及するという現象が、頻繁に起きる。
ポケットベルは、若人たちの間で擬似電子メールのごとく使われたし、PHSは伸び悩んだが、携帯電話とPHSとを加えた数では、驚異的伸びを示している。無料電子メールマガジン発行システムの“まぐまぐ”は、1万を超えるメールマガジンを擁し、延べ1200万人の読者を抱えている。iモードに代表される、携帯電話によるインターネット通信サービスも爆発的に普及し始めた。そもそも、'99年末に1500万人とも2000万人ともいわれる、日本のインターネット利用人口を、'90年代なかばに実感を伴って推定した識者の数は少ないだろう。
一方、'90年代前半からなかばに掛けてのビデオオンデマンドなどの実験が成功したとは、なかなか言い切れない。また、全体としては成長しているインターネットでも、プッシュ型技術による'96年、'97年ごろのチャレンジは頓挫した。
なかなか予想がつかないとは言え、高速大容量通信技術が、あと十数年の間、産業の起動力であり続けるのは、間違いがない。リュミエールとマルコーニとがぞれぞれ口火を切った、映像と電子通信という2つの大きな流れが交わった巨大な渦である。前述の英マルコーニの決断は、高く評価できるだろう。英国では、回線保有企業、その上での通信サービス提供企業などを分けたため、種々のサービスが競い合う状態になっている。放送についても、同じ図式が適用される。金融ビッグバンを嚆矢とする、英国政府の矢継ぎ早の産業政策も賞賛に値する。
電子通信の次の文明がバイオ、映像の次の文化がロボット
電子通信と映像の後、次の世紀を牽引するのは、バイオインフォマティックスとエージェント/人工知能/ロボット技術という2つの情報技術であろう。電子通信とバイオインフォマティックスを媒体手段、映像とエージェント/人工知能/ロボット技術をコンテンツ手法と呼んでもいいかもしれない。バイオを“媒体”、ロボットを“コンテンツ”と呼ぶことに、逆ではないかと感じられる方も多いだろうが。
電波という、自然現象ではありながら、人間の感覚では把握できない人工的な媒体を駆使した電子通信の文明体系には、バイオインフォマティックスと似たところがある。バイオインフォマティックスの典型例は、遺伝子を解析した結果を利用して、個々人に適した医療処方を選んだり、可能性のある病変を予想して防止したりするものである。遺伝子とその発現というのは、まさしく人間の生態に密着した自然現象ではあるが、生活における実感から掛け離れたところがある。それでも、電子通信と同じく、世界全体を変えていく。
映像は、光学、化学による撮影、現像と、機械装置による駒送りという、人間の視覚とははるかに遠い仕組みを利用しながら、人間の感性に訴え掛けて、新しい文化となった。エージェント/人工知能技術も、コンピューターとロボットメカニズムという、人間の頭脳や運動の実際とは、かけ離れた仕組みを利用しているが、じきに文化の中に取り込まれてくるだろう。AIBOのようなペットロボットや人間にやや近い形態の介護ロボットが、機械的存在として、人の遊び相手や、業務の手伝いの相手となる。
一方、ペットロボットや介護ロボットの知能部分を、完全にソフトウェアの存在としてネットワークに放ち、エージェントの役を遂行させ、飼い主のための各種情報を収集して、機械的存在であるロボットのプロセッサーに戻ってくることができるようになる。その情報には、役立つ知識だけでなく、娯楽のためのコンテンツなども含まれる。また、そうしたエージェント(シルバーリトリーバー)が、飼い主のセンスに合った人間の友人を見つけてくることもする。シルバーリトリーバーとのインタラクションが、文化の、1つの構成要素として認知されるようになるだろう。
ちなみに、リトリーブとは、獲物をくわえて戻ってくることである。データベースで検索結果を得ることもリトリーブという。
AIBOとbioの世紀へ
ほんの数年前まで、ロボット研究者の主流派が、ペットロボットのような利用法を、主眼に置いていたとは思えない。しかし、ロボット分野における家庭向けの最初の大量生産商品は、AIBOになった。市場は往々にして、研究者の意図と違う動きを見せる。シネマトグラフとキネトスコープの例が、示唆するとおりである。
そんな時代に、出版業はどうなるのか。心配は要らない。コンテンツを扱う編集者の仕事は、変質することはあっても、なくなることはない。人が1日の間に、メディアに対して割ける時間は限られている。選択され、パッケージ化された(物理的に包装されているという意味ではない)コンテンツがなければ、適切なコンテンツを選択すべく評価するだけで時間が過ぎてしまう。
日立デジタル平凡社の藤井氏は、平凡社と一緒に仕事をするチームに日立から来て、編集者とシステムズエンジニアとで、必要な資質が似ているので驚いた、と証言している。情報の森が深くなればなるほど、優れた道案内が必要になるのである。ロボットが深化(あえて深化と書くが)してくれば、人とロボットエージェントとの間で、「探索」についてヒントを出し合うことはできるかもしれない。しかし、「探究」の道を形成していくことは、人と人、編集者と読者との相互作用の中でしか、達成できないのではないか。
(早稲田大学 国際情報通信研究センター 客員教授 中野潔)
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